大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成3年(あ)401号 決定

本籍

千葉市中央区道場南一丁目一一二番地

住居

千葉市中央区道場南一丁目一五番二号

会社役員

紅谷和助

大正一四年二月二二日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成三年三月六日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立てがあったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人土屋東一、同萩原太郎、同木内二朗の上告趣意は、量刑不当の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 千種秀夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 大野正男 裁判官 尾崎行信)

平成三年(あ)第四〇一号

○上告趣意書

被告人 紅谷和助

右の者に対する所得税法違反被告事件についての上告の趣意は、左記のとおりである。

平成三年六月三日

主任弁護人弁護士 土屋東一

弁護人弁護士 萩原太郎

弁護人弁護士 木内二朗

最高裁判所第三小法廷 御中

上告の趣旨

原判決は、被告人を懲役一年二月及び罰金一億二〇〇〇万円に処し、懲役刑につき執行猶予を付さなかったのであるが、この刑の量定は甚だ不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められるので、刑訴法四一一条二号により原判決を破棄して頂きたい。

理由

一 総説

最高裁判所は、かつて、現在の加算税等の前身である追徴税と国税の逋脱犯との関係につき、

「逋脱犯に対する刑罰が『詐欺その他不正の行為により云々』の文字からも窺われるように、脱税者の不正行為の反社会性ないし反道徳性に着目し、これに対する制裁として科せられるものであるのに反し、……追徴税は、……過少申告・不申告による納税義務違反の発生を防止し、以って納税の実を挙げんとする行政上の措置であると解すべきである。……追徴税のかような性質にかんがみれば、憲法三九条の規定は刑罰たる罰金と追徴税とを併科することを禁止する趣旨を含むものではないと解するのが相当である。」

旨判示され(最高裁昭和三三年四月三〇日大法廷判決・民集一二巻六号九三八頁)、この民事判決は、その後、刑事事件にも援用されている(最高裁昭和三六年五月二日第三小法廷判決・刑集一五巻五号七四五頁、同年七月六日第一小法廷判決・刑集一五巻七号一〇五四頁)。その趣旨は、要するに、追徴税ないし加算税を課しながら、なお刑罰を科しても、二重処罰にならないということであるが、その論旨を正当化するには、徴税の論理と科刑の論理とは別であり、刑罰は、「反社会性ないし反道徳性」の強い逋脱、換言すれば、脱税が特に高度の違法性を有し、あえて刑事制裁を行使しなければならないような悪質なものについてだけ科すべきものとの思想が根底にあったと理解せざるを得ない(注1)。しかも、これは、法人税法における追徴税・加算税と罰金刑との関係が問題となっている場合であったのであるから、所得税法における懲役刑を科するについては、より以上の違法性がなくてはならず、なかんずく、懲役刑の実刑を科するについては、最も強度の違法性の存在を要すると考えなければならないことは当然である。

しかるに、本件における被告人による税の逋脱行為に対しては、懲役刑はやむを得ないとしても、刑務所に収容し、隔離矯正しなければならないような「反社会性、反道徳性」を発現する悪質なものでは絶対にない。それは、いわゆる実刑と執行猶予とのボーダーライン上に位置するものではなく、明らかに実刑事件とは目し得ないものである。

したがって、弁護人は、原審において、被告人につきぜひとも執行猶予の裁判を下されるべきことを、多くの理由を挙げて縷々詳述した。これを、項目的に整理すれば、次のとおりである。

〈1〉 被告人の昭和六一年、六二年分の脱税額は、合計六億三二六一万一二〇〇円であって、その基礎となった所得額(両年分合計一〇億六八四五万四一四八円)は、一見巨額に見えるが、実質はそれをはるかに下回るもの、むしろマイナスというべきものであったこと。特に強調されるべき点として

(ア)異常な評価損を来していたこと

(イ)現実に多くの実損をこうむったこと

(ウ)税制改革後の現在の法制では、脱税額は半減する性質のものであること

〈2〉 脱税の動機、手段、利得の使途等の面において違法性が甚だ軽微であること

〈3〉 犯行後の態度(改悛の情も顕著で、全税額の納付を完了していること)

〈4〉 被告人の身上、人格

〈5〉 第一審判決後の事情(反省の度を深め、養子の尽力により二千万円の贖罪寄付がなされたこと、病弱であること)

〈6〉 同種事犯との刑の比較

しかるに、原審においては、右のうち、〈5〉の点については十分な考慮を加えられ、第一審判決の刑期を減ぜられたことは大いに多とするところであり、また、第一審以来、〈3〉の大方及び〈4〉の点については、ほぼ同情を頂いたことに対しても敬意を表するものではあるが、その余の点については、全くといってよい程理解を惜しまれたことをきわめて遺憾とする。元来、租税法規はすぐれて政策的・技術的なものであり、立法の選択の如何や節税対策の巧拙によって、合法と違法、有利と不利を端的にわかつ性質があるのであるから、この点を活眼をもって洞察し、一様に脱税とされているものについても、真に厳刑に処すべきものと然らざるものとの選別が肝要である。しかるに、原判決は、税法その他の法の解釈適用をただ形式的に行い、被告人に対し、不当にきびしい量刑に出られたやに推察され、すこぶる納得できないものがある。以下、項を改め、原判決の説示に対し反論を試み、最高裁判所貴法廷の適確なご判断の資料としたい。

二 弁護人の主張と原判決の説示、これに対する反論

(1)評価損の問題

この点につき、弁護人は、大要、次のように主張した(控訴趣意書三~五頁、及び弁論要旨七~九頁)。

「被告人は、株式関係につき、昭和六一年には譲渡益が約四九〇〇万円あったものの、同年末の評価損は約二億三〇〇〇万円に及び、また、同六三年には譲渡益が約七億円あったものの、同年末の評価損は七億七〇〇〇万円にも及んでいた。

ⅰ ところで、株式に対するものを含め、いわゆるキャピタルゲイン・タックスの本質は、保有資産の価値の増加益に対する課税である。ただ、所得税法上は譲渡所得として規定されているが、これは価値増殖分を年々客観的に評価することが困難であり、その利得が未実現であるため、保有者の手を離れるまで課税を延期し、その譲渡時点でそれまでの増加益を清算して課税することとしているものと考えられる。したがって、本来は、年々の評価のプラスマイナスに応じて計算課税されるべきである。それ故、現に、法人税法では、有価証券の評価方法として、低価法をとっているほか(同法三〇条、同法施行令三四条)、有価証券の「価額が著しく低下した」ときには、損金として控除されるものとしているのである(同法三三条二項、同法施行令六八条二号参照)。ところが、所得税については、個人を対象とするその性格に基づく技術上の制約から、評価損を適切に反映させる法制になっていない。このため、所得税の納税者にとってみれば、納税時期に際し、『資産は減っているのに、税金だけは不相応にとられる』という甚だ満たされない気持ちにならざるを得ないのが一般的であろうし、おそらく、この心情は無下に排斥できないものがある。したがって、この庶民感情を基に考えれば、たとえ表面は同じ額の脱税であっても、大幅な評価損があった場合には、そのような事態ではなかった場合に比し、人情上当然量刑に斟酌されて然るべきである。まして、本件では、世上ブラックマンデーと呼ばれる史上稀れな株の大暴落に見舞われたものであって、前記法人税法施行令にいう『価額が著しく低下した』ときに該当し、法人ならば明らかに損金計上の利益を享受できたケースである。したがって、所得税の関係でも、評価損の問題は、徴税上は別としても、少なくとも、本件の量刑上は格別に考慮されてよい事情と考えられる。

ⅱ 一方、このような評価損が生じた場合に対応する苦肉の策としては、年度内に譲渡損を実現させるという便法があるにはある。そこで、もし、被告人が、適切なアドバイスを得てこの方法をとっておれば、昭和六一年度分も、六二年度分についても、被告人に対する国の具体的課税権は一切発生しなかったであろうと思料される。不幸にして、被告人はその方法をとらなかったがために、多大の所得が生じていたと認定されざるを得なかった。とするならば、このような所得は、実は節税技術の巧拙に由来する、いわば根無し草的存在といえなくもなく、このような技術上の選択のまずさを大きな理由として、-徴税の上で追及すべきであるのは現行法制下ではやむを得ないとしても-納税者を刑務所に入れることまでを決すべきではない。」

これに対し、原判決は、ⅰの点につき、有価証券の評価方法について法人税法が低価法をとっていることは、所得税法の「雑所得に適用する余地はなく」、また、有価証券の価額が著しく低下した場合に関する法人税法の救済規定も、所得税法にそのような規定を欠く以上、「たとえ量刑上の事情としても、実質的にこれらの規定を適用したと同様の取扱をすることは、立法の趣旨に反する」と説示する。しかし、これは、弁護人の主張を甚だしく誤解するものである。弁護人は、何も、個人所得における評価損について法人税法と同じ取扱いをせよと言っているのではない。キャピタルゲインの本質は所得税法であろうと、法人税法であろうと変わりはなく、ただ、徴税技術の制約から、所得税については、法人税のような形で評価損を考慮できず、したがって、賦課税額の算定について差異があるのはやむを得ないにしても、少なくとも所得税法違反の科刑上は、その評価損について若干の考慮がなされてよい旨を主張しているものである。もしも、法人税法と同じ結果を望むならば、それは「立法の趣旨に反する」であろうが、そのような幼稚な主張をするものではない。税法を流れるキャピタルゲイン課税の本質についての広い見識を基に、本件のような株式の激しい暴落に出会った市民に対し、評価損の事実を少なくとも量刑に反映して頂きたいというものである。

原判決は、ⅱの点については、被告人は、その年中に譲渡損を実現させればよいという便法を「十分知っていた」と認定しているが、これは事実誤認である。すなわち、平成元年一一月一九日付け検面調書には、「その段階で決済すればそれだけで損が出る状態になっているのに云々」の供述があるが、これは、後に続く文言と照合すればそのような便法を知っていたという意味でないことは明らかであるし、真実は、第一審第三回公判期日における被告人の供述-「確かに年度決算ということを考えれば、そこで一回少なくとって六億相当の実損を出しておいて、来年の一月四日に買いつなぐ方法をとらなくちゃいけなかったんですが、当時そういった暴落の心理的な影響が強うございまして、私自身気が付きませんでした。」というものである。しかも、このような便法(むしろ、きわどい鬼手)は、誰にでも推奨すべきものかどうかは大変疑わしい。

いずれにしても、このように問題のある評価損の処理について、納税者側に認識の誤りがあったり、節税対策を講じなかったというような一種のケアレスミス的なものがあったりしたときは、税務当局としては、それがために課税を免れ得ることにはならないことを十分知らしめるとともに、修正申告等の方法で是正すれば足りることである。現に、大企業や政治がらみの税逋脱の場合には、そのような指導が行われていることは公知の事実であり、税務当局との「見解の相違」に基づくものであったとして、刑事事件まで発展させない事例が少なくないのではあるまいか。

なお、この評価損についての見方として、第一審も、また原審も、株式のような投機的取引における損失は、巨大な利益を収め得る反面の当然の危険として甘受せざるを得ないものとするが、原則はまさにそのとおりであり、かかる投機に手を出す以上、その危険に対する覚悟は当然の存念であるべきであろう。しかし、譲渡利益に対する追及に比し、譲渡損に対する配慮の少ない現行税制の下で、国家の側からそう言い切るのは、かなりアンフェアな感がある(だからこそ、上述のような法人税法の規定があるわけである)。一方、次のような事実も存する。すなわち、新聞の報じるところによると、被告人のかかわったこのブラックマンデーに際して、大手を含む証券会社十数社は、損失を出した大口投資家に対しワラントその他の債券類の取引を行うことにより補填方法をとった。このため、平等な取扱いを得られなかった一般投資家から批判が出て、税務当局もこれを無視できなくなったかのようである(原審公判廷における被告人の供述)。評価損の甘受は当たり前という感覚は、法律の操作だけしか念頭にない裁判所の独断でなければ幸いである。とにかく、現実は裁判所の考えているレベルよりずっと低い。被告人の本件行為の動機は、指弾されるべきものであったには違いないが、特に甚だしく異様なものではなく、ひょっとしたら、多くの納税者たちが狼狽した場合には誰しも陥る愚行かもしれないのである。ここでも、徴税の平面ではなく、人を刑務所に収容するかどうかという科刑の問題として、第一審、原審の論理は再考を要するといわなければならない。

(2)経済的損失の問題

この点につき、弁護人は、大要、次のように主張した(控訴趣意書五~七頁、及び弁論要旨九~一二頁)。

「被告人は、昭和六二末の保有株式につき、結局、約三億円の実損を生じ、商品取引につき、三億三〇〇〇万の実損を生じた。もともと、有価証券取引や商品取引における譲渡損についてこれを後年度に繰越しを認めるかどうかは立法例のわかれるとろであり、わが国でも激しい論議の重ねられた歴史があるが、現行法は、ともあれ、その譲渡益は雑所得とされているため、その損失の後年度繰り越しは一切否定されている。したがって、例えば、隔年ごとに、益と損とをくりかえし、総体ではゼロ(あるいはマイナス)になっても、当年度の益分だけの課税は免れない。これは、課税技術上ある程度やむを得ないとしても、庶民の常識上は、やはりなかなか納得し難いことである。だからこそ、この点は、常に法改正論がくすぶっているところなのである(今次の昭和六三年法律一〇九号による改正の過程でも問題として指摘された。第一審・弁五号証参照)。されば、このことを従来の下級審判決、例えば、東京地裁昭和五六年六月二九日判決(第一審・弁三〇号証。これには原審裁判長も関与しておられる。)や、横浜地裁昭和五七年一〇月二六日判決(同弁三二号証)等は、明確に被告人に有利な量刑事情として斟酌するのが常であったのである。特に後者の横浜地裁判決は、次のように説明している。すなわち、株式取引のような継続的取引における利益というものは、「常に利益と損失の可能性を潜在的に内包した浮動状態の上にあって、利益が確実なものとして固定化しにくいという特性がある」と喝破し、株式取引による損益をプールしてそのまま将来の同種資金にあてていたという脱税事件につき、「三年間の儲けが(巨額な損失をこうむって)一年で消し飛んでしまった」以上、「このような事情の存在は被告人の刑責に直ちに消長を及ぼすものではないが、本件ほ脱所得の内容を構成する所得の特殊性として量刑上、被告人に有利に考慮すべきである」と論じているのである。本件被告人の立場は、その資金のあてかたにつき、当該継続取引以外にまで広げていない面において右事案と全く共通する。しかし、その損失の面ではもっとずっと苛烈である。すなわち、「儲けが消し飛んだ」程度ではなく、昭和六二年度末における保有株式ないし商品は、その大体の手仕舞いまでに、株式につき約三億円、商品につき約三億三〇〇〇万円という大損失を生じているものである。このような事実は、量刑上重要な要素たるを失わない。」

しかるに、これに対し、原判決は、実損はその年度の所得計算に反映させるべきで、「これを量刑上斟酌することは、同一の損金を二重に評価することになり、相当でない。」という、まことに慮外な説明で、弁護人の主張を一蹴した。原審がこれまで株式の譲渡損益について理解ある態度を示していた裁判所一般の傾向から一転して異なる態度をとられたやにみられるのは、やや不可解であるが、それはともかくとしても、その二重評価論には全く承服できない。けだし、本件の場合、昭和六二年に益から損を差し引いて黒字になっていたとしても、もうその翌年ないしそれ以降においては激しい赤字に転落しているのである。この場合、翌年ないしそれ以降の損失を各年度の所得計算に組み入れるのは当然のことであるが、組み入れられる限度は譲渡益の限度までであり、それ以上の損失があったとき、すなわち絶対的損失があったときについては、税法は何らの特別措置をも与えてはくれていないのである。上述したように、被告人は、トータルで三億円または三億三〇〇〇万円の絶対的損失を生じたのであって、昭和六一、六二年の黒字はいわば一瞬の閃光か、泡沫に過ぎないともいえよう。かかる損失を徴税上考慮できないことは現行法制下ではやむを得ないとしても(立法例によっては、後年度への繰越し、他所得からの控除を認めるところもある)、量刑上考慮することは、何ら二重評価になるものではない(二重評価とは、相覆っている同一の事実につき再度プラスマイナスを行うことで、一度目で評価できなかったことをさらに評価することはこれに当たらない。むしろ、国側が、脱税につき、行政罰と刑事罰とを賦課することこそ、二重評価のおそれがあるとして議論のあったところである。)

なお、利得犯における犯行後の利得の使途が量刑上考慮の対象にならないはずはない。すなわち、脱税にかかる金額をどのような使途に向けたか、例えば、不明朗な政治的資金に充てたか、あるいは、株価つり上げ目的の仕手戦に用立てたか、それとも単なる財テクに使い、そして儲けが得られたかどうか、などは、「犯罪後の情況(刑訴法二四八条)」として、無視できないと思われるし、その結果としての経済的損失の大小は、当然量刑事情になることはいうまでもない。この点、被告人は、脱税後、好ましからざる方法でその利得を利用したのでもなく、ただ従来の取引を継続した形で大きな損失をこうむったのであった。一年単位ではなく、もう少し長いレンジでみれば間違いなく損失者に該当する。したがって、現行法制下では、そのような者からの税徴収もやむを得ないとしても、体刑の実刑まで科する合理的理由はない。なるほど、被告人を中心とする紅谷家の財産状態は、一般家庭に比し恵まれている。逋脱額は完納し、多額の保釈保証金も提出し、贖罪寄付まで行い得た(ただし、被告人個人の現在の収入状態は中堅サラリーマンより少ない。原審・弁五号証)。そのため、ここで述べている経済的実損についての同情があまり得られない恨みがある。しかし、叙上のとおり、被告人が実質的損失を受け、利得が皆無であることは厳たる事実である。どんな名目をつけようとも、巨利を博した場合と同様の刑、特に実刑に処する必然性は毛頭ないと考える。原判決の態度は幾重にも疑わずにはおれない。

(3)税制改革問題

この点につき、弁護人は、大要、次のように主張した(控訴趣意書八~一〇頁、及び弁論要旨一二~一三頁)。

「本件後、いわゆるキャピタルゲイン課税について所得税法の改正が行われ、改正法によれば、

ⅰ 一般投資家のほとんどは源泉分離方式による納税を行うことになったから、今後、本件のような逋脱事件発生の余地はなく、したがって、一般予防の観点から被告人に厳罰を加える必要はない。

ⅱ もし、改正法の申告分離課税方式を選択すれば、被告人は、株式だけでの税額において約三分の一に、全申告所得税額において約二分の一の低額しか納めなくてもよい計算になるから、このような改正法の恩典は、刑法六条の趣旨からも量刑上考慮されるべきである。」

これに対し、原判決は、ⅰの点については答えがなく、ⅱの点については、改正法の経過規定は、「昭和六三年分以前の所得税については従前の例による。」旨定めており、その趣旨は、同一年度の納税を法改正の前後によって不公平が生ずることがあってはならないようにしたものと解すべきであるから、本件についても改正法を適用したと同様の扱いをして、量刑上考慮することはできないといわれる。

もちろん、弁護人としても、本件につき、形式的に、改正法を適用ないし準用し、被告人の脱税額を改正された有価証券譲渡益課税基準に基づいて計算したのと同視して量刑すべきであるなどと主張するものではない。新旧相接着している時点で、法の取扱いに差異が生じる場合、新法の利益を、できるだけ過去にも均霑させる形で刑の適用を考えることが庶民の公平感情に沿うであろう旨を論じているものである。そして、それがまさに刑法六条の趣旨なのである。なるほど、刑法六条の本質をめぐって論争があり、裁判を受ける時期によって科刑の不公平をもたらすとの危惧をもつ者もなくはないが、しかし、少なくとも、犯人に利益になる事後の「刑」の変更については、若干の不公平を超えてもその利益を彼に享受せしめようとしたのが刑法六条である。もちろん、法改正にあたって、経過措置として、一般的に、「なお、従前の例による。」とされている場合があり、このときは当然旧法にしたがうべきであるとはいえ、それは犯罪の成立や刑の内容という概念的・抽象的事項についてであって、刑の量定など具体的・裁量的事項については、-立法者の新しい見解(恩典)を容れることをあからさまに許さない程のケースでない限り-その見解を加味して考えるのが法の正しい解釈適用態度であろうと信じる。(今回の税制改正においては、改正法に附則八一条の見直し条項が置かれたが、これは、新法が大口短期取引に対して優遇し過ぎるのではないかとの国会論議の中から盛りこまれたものである。しかし、一般には、旧法よりはるかに有利に扱おうとする改正法の趣旨は、当然、旧法事件に対する刑の適用について斟酌すべきものと考える。)僅かな時期の相異で税額、したがってまた脱税額が半減する事態から全く目をつぶって刑を適用することこそ、かえって不公平感情や、法を非情とする感情を助長するものではあるまいか。この観点からも、被告人の刑は低かるべきであることを強調したい。

(4)脱税の動機、手段、利得の使途等の問題

Ⅰ 原判決は、被告人の本件犯行の動機について、それは、株式や商品取引に伴う将来の不測の損失に備え、また、次の取引資金確保のために行ったもので、「著しく納税意識に欠け、私利を優先させる態度は、厳しく非難されてもやむを得ない」と述べるとともに、いわゆるブラックマンデーの大暴落による損失を税金に転嫁し、「脱税によってカバーしようとした所為に酌むべきものは認められない」と厳しく論断している。

すでに、第一審でも、原審でも、くりかえし吐露したように、被告人の今回の脱税行為の非なることについては、重々恐懼せざるを得ないことである。しかし、そのとった行為は、平均人として遙かに逸脱したと評されるべきものではないのではあるまいか。非違行為を犯しながらの言であるので、『盗人たけだけしい』との批判を受けるかもしれないが、次の事実はぜひともご留意頂きたい。第一に、原審で提出した弁七号証「キャピタルゲイン課税の要点と対策」によれば、株式譲渡(継続取引の分)による所得の申告状況は、昭和六一年において、全国で、僅か一八六件にすぎない。投資ブームに乗った全国投資家の数はおびただしいと思われるのに、この一八六という数字は何を物語るものであろうか。このような、申告の不振が今回の税制改革の大きな要因になったことは、改めて説明するまでもない。被告人の納税意識が貧困であったことについては弁解の余地はないが、同様のレベルにとどまる者で摘発を免れた幸運者(?)が多々存在することは、何びとも否定できないところと思われる。このため、無申告により摘発を受けることを、世上、「税金の鼠取りだ」と、きわめてシニカルな批判がまかり通っていたという(前記弁七号証)。したがって、もしこの現実的不条理に想到するならば、原判決のように被告人のみを厳しく責めるのではなく、少なくとも被告人を実刑に処するか否かの決定に際しては、一掬の同情が賜われるものではないかと思料する。

第二に、ブラックマンデーの大暴落による影響は広範にわたり、それへの対策は合法、非合法のさまざまな形でなされたことは優に推定できる。さきに挙げた証券業界の大口投資家に対する措置などはその一例にほかならない。被告人の場合は、適切なアドバイザーを欠いていたため、前述のように、その年に譲渡損を実現させることも知らず、精神的混乱のさ中で、資産が減っている以上、税金を納めなくてもかまわないのではないかという市井の常識的な判断で益分の申告を怠ったのであった。節税方法(それも、前述のように、きわめて異常な方法である)を知らなかったがために、脱税の烙印を押されざるを得なかった点は、見方によっては、量刑事情としてむしろ「酌むべきもの」があるともいえるのではないであろうか。

Ⅱ 本件の脱税の動機が単純なものであることは、その脱税の手段とされているものがまた、とるに足らないものであることにも現われている。もし、その動機が(通常の株式取引による儲けを享受する意図ではなく、)法外な利益を得る意図であるならば、帳簿不作成、帳簿への虚偽記入、架空経費の計上、二重帳簿または伝票の作成、仮名または簿外預金の設定、仮名取引等の不正手段を用いるのが通常であろう。しかるに、本件ではこのような積極的な所得秘匿行為は全く見当たらない。他面、事後の不正隠滅工作も全然ない。

そして、本件では、逋脱罪の構成要件(手段)としての「偽りその他不正行為」に該当するのは、〈1〉他人名義の使用、及び〈2〉過少申告とであると思われるが、〈1〉の点については、第一審においても(弁論要旨四~九頁)、原審においても(控訴趣意書一九~二七頁、及び弁論要旨一七、一八頁)詳説したとおり、不正手段に当たらない公算が強い。すなわち、

ⅰ 養子である武史名義にしたのは、紅谷家の財産が、本来、先代の嫡子(家督相続人)である武史に属するものであり、株式取引資金の原資も同人名義で銀行借入れをしたものであったからである。

ⅱ 孫七名の名義にしたのは、証券会社員の懇請により、その営業実績向上に協力したものにすぎない。

ⅲ 妻義子、武史の妻まり子の各名義にしたのも、取引銀行の要請で株主数を増すため家族名義をつかったものにすぎない。(なお、義子の一〇〇〇株は、被告人に無関係のものである。)

ⅳ 実子である紅谷修次、中井智子、伊藤恵子名義にしたのは、将来利益が出れば、分与してやろうとの心づもりで準備していたものである。

ⅴ 株式会社和紅名義にしたのは、法人口座を増やそうという取引銀行の願いを容れたものである(しかも、この件は、結局、税務署も和紅からの法人税申告で了解している。控訴趣意書二三頁)。

以上のように、被告人が他人名義を用いたのは、すべて身内の者の名義で、それぞれ首肯すべき世間によくある理由からであって、脱税の意図とは全く無関係のものである。もしも、名義分散を脱税の手段とするつもりであるならば、調査しても直ぐには発覚しない架空名義か、なるべく関係の薄い他人名義を用いたであろう。また、本人名義のものは申告し、他人名義のものは申告しないとか、借名口座の分散によって原則非課税枠に抑えようとした事実でもあれば脱税の意図ありと断定すべきかもしれないが、そのような片鱗だにない。したがって、本件の名義分散を「偽りその他不正の行為」に当てはめるのはもともと筋違いであったのである。にもかかわらず、これを、検察官の冒頭陳述において、あるいは一、二審判決において、不正行為の一態様として掲記せざるを得なかったのは、過少申告行為だけでは、いかに最高裁判決(昭和四八年三月二〇日第三小法廷判決、刑集二七巻二号一三八頁等)があったとしても、俗にいう「座りが悪い」からであるとしか思えない。少なくとも、右判決の原典ともいうべき最高裁昭和四二年一一月八日大法廷判決(刑集二一巻九号一一九七頁)にいう「なんらかの偽計その他の工作」には常識的には該当しないのではあるまいか。本件の脱税は、たまたま他の所得があって申告がなされたため、虚偽の過少申告として逋脱罪の構成要件を充足することになったが、その実質は、「偽り」や「偽計」または「工作」などとは全く無縁の、いわゆる無申告犯(所得税法二四一条)に限りなく近いものにすぎない。すなわち、それほどまでに、違法性の薄弱なものである。と同時に、このような事案で、「逋脱率九九・八八パーセントという高率」(原判決書三~四頁)というのは、あまり意味をもたない数字といわなければならない。

Ⅲ 被告人は、本件の株式または商品取引を単なる財テク目的で行ったにとどまる。世上このような取引を、政治、遊興その他公私に入用の秘密資金の獲得にあてようとしたり、反商業道徳的な仕手戦に投入するなどの目的に用いる場合が少なくない。近時、国民の非難が増しているのはこの類いの取引である。しかし、本件の被告人の行為は、やや財産に余裕のあった一市民の財テク行為で、しかも結果において大損をし、目標を達せず失敗に終わった好例なのである。

要するに、被告人の本件逋脱行為は、その動機、手段、利得の使途等の面でも、懲役の実刑に処することを必然的ならしめる要素は皆無といわなければならない。

(5)犯行後の態度の問題

この点につき、弁護人は、大要、次のように主張した(控訴趣意書二七~三四頁)。

「被告人は、本件発覚後、その非を認め、速やかに、重加算税・地方税を含む税金の全額を完納し(総計一〇億三三五二万八一〇〇円)、反省悔悟の情を示した。また、紅谷家の財産管理の実権をあげて武史に移譲することにし、株式、商品取引は清算に必要なものを除きすべて手仕舞いし、二度と不祥事が生じない措置をとった。他方、千葉駅北口駅前地権者協議会理事長の職も辞任し、謹慎の日をおくっている。」

原判決がこれらの事項を量刑上十分斟酌されたことは判文上明らかてあるが、ただ、被告人の捜査段階の態度をとらえて、「一時逋脱の犯意を否認し、国税当局に上申書を提出して争う態度を見せるなど、その犯情は頗る悪質」と難詰している点については、大いに異議を申し立てたい。たしかに、被告人は、本件所得税の申告時に、年内の譲渡益があれば、たとえ評価損が生じていても申告義務が存することは、一応知っていたと認められる。したがって、税務当局の調査を受ける当初の段階では、このことに関しても、また本件の取引のうち武史名義のものの受益主体が被告人自身であることに関しても、すべて争わなかった。しかし、その後熟考してみると、右の二点につき、得心できかねる点もあり、いわば半信半疑の気持ちが台頭して、昭和六三年一〇月一二日ころ、弁護士及び税理士に相談することになったとみられる。そこで、当の弁護士らから、「申告しないでもよいと考えていたのならば、その旨を上申書にして国税局に出したほうがよい」とのアドバイスを受け、その作成にかかる文案に基づいた上申書を被告人において、同月二七日、国税局に提出したもののごとくである(平成元年一一月一三日付け被告人の検面調書)。この弁護士らとの相談内容の一部は、同年一一月一九日付け検面調書から窺知できるのであるが、そのアドバイスは正当な弁護活動の範囲内のものであるし、それにしたがって、被告人が上申書を提出したり、その後の各調査や検察官の取調べにおいて、従前と異なる、例えば犯意を争う主張をしたからといって、もしその段階で被告人が正しいと思料していたことであるのならば、それ自体は何らとがめられることではないはずである。しかも、被告人が一時争ったとみられる右の二点は、主として法的見解にかかわることであって、素人の立場では、あながち根拠の無いものではないともいえることであった。しかし、検面調書の記載によると、被告人は、結局、検察官の取調べを受けるに至った段階で、検察官の理詰めの見解を受容し、自己の主張は間違ったものであると考えを変え、全面自白に及んだものと推定される。しかし、被告人は、このような中でも、納税を怠ったそのことについては、義務違反であることを痛感し、昭和六三年一一月一〇日には所得税の修正分(本税、延滞税)約五億七千万円をいちはやく納入し、その余の地方税その他を翌平成元年一月中に完納しているのである(第一審・弁三号明)。このような経過をつぶさに検討するとき、被告人が、一時犯意を否認し、上申書を提出したことをもって一概に「悪質」と非難できるものとは到底いい難い。(被告人は、平成元年一一月九日逮捕されて以来、以上のような供述の変遷があったことなどが罪証隠滅のおそれを構成する重要な事実であるとして、起訴後も容易に保釈を許されず、その状態は第一回公判期日で被告人が有罪を自認するまで続いたが、現実には罪証隠滅のおそれをうかがわせるような具体的徴表が何一つ発生していたわけでなく、その意味では杞憂であったというべく、この身柄確保の過程が甚だしく不自然なものであったことは、一件記録によく現われている。)被告人が税務当局や検察官に対して自己の見解を主張したことは、もとより罪証隠滅工作に当たらず、悪性を推定させるものではない。これをもって、被告人に対し量刑上不利に扱うのは、著しく妥当性を欠くといわなければならない。しかも、被告人は、その後、検察官の見解を受け入れて、徴税・捜査・公判の進行に十分協力し、改悛悔悟の態度が顕著といってよいことは疑問の余地がないことである。

ところで、一般に、公判で否認する場合、量刑上不利に評価することが許されるかの問題があるが、有力な反対はあるにしても、それは「悔悟の徴表」(平野博士)の有無の観点から実務上積極に解するのが一般である。しかるに、原判決のように、告発の前後ころの一時的な否認(もっとも、上述のように、本件の被告人の争い方は、論拠がなくもなかったものであるが、その点はしばらく措く。)をもって、頗る悪質とみるとなると、その後の前記のような改悛悔悟は一体どのような意味に考えたらよいものであろうか。法は、犯罪行為自体についてさえ、いつも「引き返すための黄金の橋」を用意しているものである。かの中止未遂における刑の軽減規定がそうであるし、自首減軽もそうである。いわんや、かつて一時的に迷った主張をしたことを殊更取り上げるのでは、切角所期した更生の念を萎縮させてしまうばかりではなかろうか。刑の量定にあたっては、現在の改悛悔悟の状態こそが大事なことであり、原判決の量刑感覚は到底是認できない。

(6)同種事犯との刑の比較の問題

原判決は、「最近における同種事犯との刑の権衡」を被告人に有利な情状として一応挙示している(一〇頁)。しかし、実は、その意味するところは、あまりはっきりしない。

この点に関して、弁護士は、控訴趣意書においては、第一審で検察官、弁護人双方から提出された量刑関係の文献に照らせば、株式取引による脱税事犯で実刑は一つもなく、むしろ、執行猶予になったものの理由説明に参考となるものが多い、と指摘した(趣意書四二頁以下)。そしてまた、原審弁論要旨においては、原審で検察官から提出された「実刑判決事例調べ(株式売買益の除外)」の諸例を分析すれば、あらためて本件被告人の情状が、これら実刑判決を受けた諸例とは明白に異質の関係にあることを認識せずにはおれないと論じた。そして、本件には、何よりもまず、これら諸例にみられるような名義隠し、不正工作、事後の証拠隠滅行為、社会的影響の大きさ等は、およそ存在しないし、また、これら諸例がどれも相当額の利益を獲得しているのに反し、本件被告人のみは多大の損失をこうむっていること、他方、本件被告人は、いちはやく本税、付帯税の全部を完納してみずからの非を清算する態度をとったが、右の諸例は、いずれも納付を遷延しており、かつ、改悛の情を実質であらわす意味での贖罪寄付も行っているわけではなく、彼此総合して案ずれば、被告人に対する実刑判決の異様な重さが、むしろ、きわだっている旨強調した。したがって、原判決も、おそらく、このような対比の結果は無視できず、この点を被告人に有利な事情として挙げざるを得なかったと思われる。が、しかし、それでもなお、執行猶予はおろか、一審の刑を動かすにも足りない、としているのであるならば、それでは、少しも同種事犯の刑との権衡を有利に考慮したことになってはおらず、論理矛盾である。貴法廷におかれては、ぜひとも、この、同種事犯(逋脱罪一般ではなく、株式譲渡益に関するものであるべきは、いうまでもない。)との刑の真の実態に即した権衡をご考慮願いたい。

三 職権破棄を求める-結語

以上、量刑についての原判決の説示の不備、誤謬を指摘した。いささか細部の議論に亘りすぎたかもしれない。しかし、被告人としては、脱税という不名誉な行為を犯したことであってみれば、それ相当の刑に服しなければならないことは覚悟してはいるものの、原判決のこのような見解のもとで刑務所に行けといわれても、大悟して服役することはできないのである。

弁護人として思うには、近時、税法違反事件についての下級審裁判所の量刑は、日増しに重くなりつつあるようにうかがわれる。むしろ、検察官以上のきびしい感覚でのぞんでおられるのではないかとさえ疑われる。特にそれは、実刑と執行猶予の限界の面にあらわれている(検察官は、刑の量だけしか求刑せず、執行猶予の点については意見を表明しない)。このため、いまや、税法違反事件は、脱税額次第では、人身事件よりも、また、破廉恥な財産事件よりも、執行猶予なしの重刑が科せられる傾向があり、かつて、かの業務上過失事件の刑が故意犯のそれよりも重刑であった一時期の異様な捩れ状態の再現ではないかと危惧する在野法曹も少なくない。もちろん、脱税行為は、国家財政の基盤を侵食する経済犯的面だけで捉えるべきではなく、担税力に応じて公平に納税義務を負う国民の共通利益(タックルモラル)を侵害する反社会犯的面こそが重視されねばならなくなっている。したがって、その刑を単なる罰金刑や執行猶予付き体刑だけで足りるとした考え方とは決別しなければならないことはいうまでもない。しかし、それは同時に、適正な量刑というのは、逋脱税額ばかりでなく(もとより、これが重要であることは当然であるが)、逋脱行為の態様により反社会性・悪性を捉え、申告率、過去の納税成績、逋脱の動機、罪証隠滅の有無、逋脱額の使途、再犯のおそれ(経理の改善)、改悛の情の有無等、行為者の人格態度を量刑基準の最重要な要素として考慮すべきことが強く要請されていることを意味する(注2)。しかるに、本件に関する原判決の態度は、その人格的な反社会性の強弱の面をむしろ軽視し、逋脱額についても、逋脱の動機・手段についても、表面的、形式的観察でこと終われりとしている感がするのを否めない。その原因としては、-独断・非礼との批判をおそれず敢えて開陳するならば、-一つには、裁判所が、冒頭に掲記した行政的制裁の論理と刑事的制裁の論理とを十分区別しないことであり、二つには、租税法には政策的・技術的面が多くあって、合法、違法の境界が流動的であるため刑事的制裁をきびしくするにはよほど慎重でなければならないのに、その認識が不足していること、三つには、刑の量定を自覚的に「犯罪の抑制及び犯人の改善更生に役立つことを目的として」(改正刑法草案四八条二項)なすというより、検察官の求刑と量刑相場だけで運用される傾きがなしとしないこと、にあるのではあるまいか。

たしかに、次々と、大掛かりな脱税が摘発される昨今である。裁判所も、(特に、専門部制をとっている場合には)あとに続く事件のことをも考えて、少しでも甘い量刑をすると、これを先例に擬しての主張が増加し、量刑の弛緩を来すとの懸念をもたれるのかもしれない。しかし、そのために、本来、反社会性の乏しい事案を犠牲にしてはならない。巨視的には、それもやむを得ないとの観念が成り立つようであるが、当の被告人にとっては一生一度の大事である。刑事政策理論の進歩の方向として、刑は常に個別的でなければならないといわれるのは、まさに、そこに一つの大きな意義がある。

本件は、すでに詳述したごとく、脱税事件としては、被告人に、どの面から見ても反社会性の殆んど看取されない事件である。脱税額の大きさは、実体のない、いわば蜃気楼的なものにすぎない。最高裁判所貴法廷におかれては、この際、脱税事件に対する下級審の無差別な厳罰傾向を戒め、その純化をはかるため、本件を例えばモデルとされて、脱税事件の本質を精察された適切な実刑科刑基準を指し示されんことを切望したい。弁護人として、刑訴法四一一条二号の発動は、稀有の、容易に抜かれることのない伝家の宝刀と理解している。ではあろうが、本件はそれを適用するについて、最もふさわしいケースであろうと思料する。

職権による原判決の破棄を求める次第である。

(注1)板倉宏「行政刑法の課題」ジュリスト増刊・現代の法理論一一〇頁

(注2)松沢智「租税法の基本原理」二三八頁

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